白水の津

灘校の内部情報とか、雑記とか

損得勘定のない人間関係

 タイトル通りのテーマで、今回は書いていきたいかなと。

 君子之交淡如水、「君子の交わりは淡きこと水の如く」とはよく言ったものです。才徳のある人の人間関係はさっぱりしていて、それでも長続きする。ここに利益を得たい、だとかそういった損得勘定の含まれた意図はありません。

 何かのビジネスに失敗し、大きな損失を被ってしまったとしましょう。どろどろとした人間関係ならば、金の尽きが縁の尽き。だれも助けてくれません。しかし、淡い水のような人間関係ならば、そういうときこそ助けてくれる。そういったものであると言えるのでしょう。

 しかし、そういった損得勘定のない人間関係を築くことができるのは、いつまでなのでしょうか?もしかしたら、私たち高校生は、もうできなくなっているのかもしれないーそういった仮説を、今回は提唱していきたいと思います。

 

なぜ仲良くなるのか?

 私は男の子の人間関係しか分からないのですが、まあ小学生までは「その場で偶然会ったら友達」みたいな要素が、それなりに強くあります。とりあえずスポーツだとかゲームだとか言った、誰でも共有している話題で盛り上がるものです。そういえば、趣味はゲームだって小学生の頃は言っていたな...鉄道だとか政治研究だとか自己紹介して浮く勇気まではなかったです。

 灘校に入ってからも、中1くらいの、教室でじゃれあっているような人間関係のころまではそのような傾向があると思います。打ち解けられれば、交友関係が始まる。結構単純な仕組みで友達が作られていきますし、そこに損得勘定は入ってきません。まあ、私はそこで交友関係の構築に躓き(クラスガチャで大外れを引いたというのもありました、とはいえ、今考えたら仲良くなれそうな人も何人かいたのに、本当にもったいないことをしていました)

 しかし、高校生くらいの時期になると、そんな感じで交友関係は成立しなくなります。つまりは関わっていて役に立つかどうか、が友人関係を構築するかにおいてある程度のウエイトを占めてくるのです。何か有能なポイントー学力が高いとか、頭が切れるとか、リーダーシップがあるとかーがないと、人間関係がなかなか膨らまない。そして、それらの要素は「定期考査や模試での点数」「部長をはじめとするリーダー、マネジメント経験の有無」などで明確に可視化されてしまうのです。頭の切れなどは少し話してみればわかることですから、ある意味それ以上に残酷かもしれません。こうして、レベルタイごとに人間関係が出来上がっていくようになります。上位層は上位層で、そうでもない人はそうでもない人同士でーけっこう寂しい話ですが、気が付かないうちに分かれていくのです。

 

 本当に、幼さがまだ残っているころに作られる人間関係って、本当に大切です。今だからこそそれがしみわたってきますが、その当時は何も気づいておらず、その純粋さゆえに心から打ち解けられたのかもしれません。今更思い出も語るのも、変な話ですが...