白水の津

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灘校の針路 第2回:団結か、多極化か

 前回は灘校の中での相互理解がコロナ禍において減少し、それが灘校の自由を不干渉から排外へとつながりかねない無関心へと転向させつつあることについて論じました。

 灘校(にかかわらず、組織全体)の相互関心を促進するには、大きく分けて2つの選択肢があると考えています。組織のメンバー全体で団結を促進することと、それぞれの個性を深めた面白みのある人間が、積極的に相互交流を行うのと2つがあります。私は明確に後者を推進すべきだと考えていまして、今回はその根拠について論じていこうと思います。

明確な目的の不在

 灘校にももちろん教育方針があります。これをホームページから引用します。

  1. 「精力善用」「自他共栄」の精神に徹した健全な社会人を育て上げる。
  2. 自主性を養い強固な信念を育てる。
  3. 質実剛健をモットーとし勤労をよろこぶ習慣を養う。
  4. 運動を奨励し強靭な体力と明朗闊達なスポーツマンシップを育成する。
  5. 豊かな趣味を養い高尚優雅な品性を育成する。

 灘校の教育目標は抽象的です。といっても、灘校のような進学校はあくまで高等教育を受けるにふさわしい基礎教育を施したうえで、勉強に留まらない、いわば「大学で伸びる」生徒を育成する学校であるべきで、先生方がそれを意識しているかどうかは別問題として、実際にそうなっています。自動車学校のように「自動車を運転できるようになる」といった明確な目的はなく、東大や京大、医学部への合格といった要素はあくまで副次的なものであり、それが達成されなければ灘校の教育の意味はなかった、というものではありません。(重要)

 それゆえ、灘校生が将来のために行うべき目標は一人ひとり違いますし、そのために中高6年間を過ごすべきかは大きく変わってきます。人生全体を俯瞰したときに、鉄緑戦士がふさわしいか、あるいは中島らも氏のように可能な限り最大限勉強を投げ捨てるべきか、どれが最適解なのかは本人にもわかりませんし、それを決めつけることは自由に反します(その決めつけを行って、難関大学への合格者数を増やそうとしている学校を、ネット上では自称進学校と呼んだりします)。

団結の意味するところ

  学年が団結すればお互いに疎遠な状況は改善されるのでは?といった簡単な解決策はあまりいい方向性へ行かないどころか、そもそも相互理解それ自体が自由を目標にしたものなのですから、手段のためにむしろ目的と反対の方向へと向かってしまう、ということになりかねません。

 学年が団結している、とはどのような状況なのでしょうか?

 それには、唯一と言っていい条件があると思います。学年団、ないしは特定の生徒が強大な影響力を持っていることです。これによってもたらされる影響は

・学校の運営方針で、発言権に大きな差が

・一つの目標に、同じ程度コミットすることが求められる

のおおまかに2つに分類することができます。

 発言権が平等であるべきという考え方と、先ほど述べた「目標が違うのだから、何が最適解なのかは一人ひとり違う。だからこそ、強制は最小限であるべきだ」という2つの考え方とを照らし合わせれば、学年が団結している状況は、目指すべき「自由」と程遠いことが分かると思います。

規則のない全体主義

 少し話を脱線させますが、「明確な目的性を持っていない」ということは、学校のあるべき姿を考えるうえで重要です。どのような価値観に従って、どのような行動を行うべきかどうかが人それぞれであることを強調させてくれます。

 生徒指導部はよく「自由と責任」を両立させますが、その責任とは何か定義されていない...というよりか、むしろ規則がないことで、その果たさなければいけない義務を、立場の強い側が好き放題に解釈することができるという意味で問題です。あくまで、法律と良識(この法律の中には、もちろん契約も含まれます。学費を払っている主体は保護者であっても、灘校生徒として契約していることはいくつかあります)に従うことが私たちの責務であり、それ以上のことが求められるべきではありません。それは何かの価値基準によって「良いこと」と「悪いこと」を区別し、前者を押し付けることに他ならないからです。ある意味、「have to」と「should」の混在による危機、と言い換えれば分かりやすいかもしれません。ある特定の行動を進めることは建設的ですが、しなければならないと強制することは自由に反します。自由とは、強制のないこと(absense of coercion)であると、私は確信しています。

理想かもしれないけれど

 有機的に動く小宇宙的な空間が、学校には大切なのだし、それこそがまさに「社会の縮図」だと考えています。学校は社会の縮図だ!とよく言われていますが、特定の目標に向かっていき、あらゆることが強制されるものが現代日本の縮図であるわけがありませんし、むしろそれを「社会の縮図」と刷り込むことこそ不自由な社会に向かっていくんじゃないか...と少し論理を飛躍させて、今回の記事を終わらせようと思います。

 お読みいただきありがとうございました。