白水の津

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灘校の針路 第1回:不干渉vs無関心

 これからはしばらく、灘校の現在地を見つめたうえで、将来を描いていくような企画として、「灘校の針路」という連載企画を行っていこうと思います。不定期ですが、可能な限り更新していこうと思っていますので、よろしくお願いします。

 

 それではさっそく、第1回。今回のテーマは、「不干渉vs無関心」です。灘校に広まりつつある他者への無関心がどのような影響をもたらすか、考察していきたいと思います。

「自粛の3年間」を経て

コロナ禍の灘校を振り返るという企画で、私が寄稿した文章が以下になります。8月ころに書いた文章ですが、今も所感はほとんど変わっていません。

私が灘校に入学したのは「平成」31年。中学1年のころというのは、誰もが灘校の空気になじもうと暗中模索するのだが、学業面でもその他でも最初に躓いた私だからこそ、より一層、当時の空気を鮮明に覚えているところがあるかもしれない。

コロナ禍において、感染対策のため、どうしても人間関係が希薄化したところがあっただろう。これが、灘校の自由を空虚なものにさせてしまったのではないかと、校風が本質的に維持できるかという意味で気をもんでいる。

「無関心」と「不干渉」は一見似ているのだが、大きく違う点がある。他者への想像力を喪失したか、逆にそれに富んでいるかだ。

 

灘校の校風はいろいろと形容できるが。「アカデミックでリベラル」という点は特に固有のものであると言えるだろう。とにかく尖っている人が多いし、そういった人がのびのびできるような自由さもある。

自由とは何か、というものの答えが、おのおのがどの価値を重要視するかで変わることは、言うまでもない。そして、今の灘校は「他者に関して無関心であり、それゆえ規則を定めなくてよい」といった方向での自由に向かっているような向きがあり、同級生にいい意味で興味を持っていた人が多かったコロナ前とは逆行しているような気がしてならない。いわば、灘校が徐々に息の詰まる空間になっているのではないか。この学校は、本来生徒を鋳型にはめるような学校ではなかったはずなのだけれど。

 無関心がいつか敵意へと変わり、排外をもたらすことは、歴史も証明しています。異質なものへの懐疑と恐怖。それは相手を知ろうとしない態度から生まれるものです。「よく知ってみたら、実はいい人だった」というのはよく聞く話です。

 人間関係の希薄化が互いの無関心を生んだのは感覚的にわかることですが、その理由は簡単に説明することができます。全体主義に警笛を鳴らしたことで知られるドイツの政治哲学者、ハンナ・アーレントは人間の営みの中で、生活に欠かせないことのために行う、農耕だとか賃金を得るための仕事だとかをはじめとした「労働」と集団で行われるべき、社会に関する議論や防衛をはじめとする「活動」とを対比させ、労働への没頭は相互の無関心を(お金を稼ぐために必死になっている人が、他者の生活に関心を持っていなさそう、みたいな漠然な理解で十分です)、活動は互いを相互理解することを必要とするがゆえ、それを促進すると論じました。灘校において、アーレントの言うところの「労働」の占める割合がコロナ禍において大きくなっていたことは見逃せません。

受験勉強の中にある特性

 言うまでもなく、灘校は進学校であり、東大・京大・医学部医学科への進路を希望する人が大多数を占めています。それらの最難関大学へ合格するためには、人よりけりですが長時間の受験勉強を経て、入試当日にライバルよりも高得点を取らなければなりません。受験勉強には、ライバルを蹴落として自らが利益を得るという、まさしく「労働」と同じ要素が含まれています。私はこれがなんだか嫌で勉強に手が付かなくなった時期があり、勉強する理由を再構築しなければいけなくなりました。詳しくは、またどこかでブログに書きたいと思います。

 これは、いわゆる受験エリートがしばしば陥りがちな罠なのですが、「いい大学、いい仕事でないと幸せになれないし、人間失格だ」という、一種の強迫観念ともいうべき考え方を持ち得ていることがよくあります。もちろんそんなことはありませんし、これについてここで詳しく論じることはしませんが、ある意味「生きるために、必死になって」受験勉強を行っている側面があり、それは生計を立てるために労働し続ける「プロレタリアート」の姿と重なります。

 少し議論が脱線しましたが、灘校生はコロナ禍を経て、労働に近い要素を持ち合わせた「受験突破のための勉強」と、インターネットを通じて行われる趣味ー動画やゲームですーを灘校生は生活の中心に据えるようになり、他者との共同作業である「活動」の割合が低下しました。もちろん、組対抗行事には「ほかの集団を蹴落とし、自らの集団を優位に立たせる」という意味で全体主義と「労働」とが混じり合った性質があり、これらを称賛するような立場に私はありません。それでは、灘校から相互理解を取り戻すために、私は何を重視しようとしているのでしょうか。

「それ、面白そう」が消えた

 内輪ノリではない、他者との相互理解という意味では、関わりを持っている人の数よりも、系統数が大事になります。集団によってそれぞれ持っている興味深さは違うものですが、系統数が多ければ多いほど、普段から多様な価値観に興味を持ちながら触れることになり、自然と対話が生まれたり、自他について新たな気付きを得ます。これがアーレントの議論における「活動」であり、それは私たちのような討議族が好む、社会科学についての議論ではなかったとしても、相互理解を促進します。

 コロナ禍で人と人とのかかわりが制限され、おのずと人間関係が固定化されてしまったのかもしれません。(これは仮説であり、可能であれば灘校生全体での検証が必要な項目でしょう)。内輪の集団で固まるようになってしまえば、新たな視点や面白さに触れるようなことも減ります。相互理解の機会は減っていき、他の集団に対しての無関心が助長されます。

対立概念としての「無関心」と「不干渉」

 無関心が排外をもたらすことはすでに述べましたが、それに対して不干渉は他者を個人として尊重することを起点とする態度であり、無関心とはむしろ反対であると言えます。

 干渉しないことと、お互いに意見を言うことは別です。「ゲームばっかりしているのって建設的じゃないと思うけど、君はどう思う?」ということは相互理解を目的とした不干渉ですが、「あいつは撮り鉄。でんしゃシュッポッポー!」というのはまさに無関心から生まれる敵視と排外です。お互いに建設的に意見を言い合う不干渉、これが目指していた灘校の姿であり、強制されない自由ではなかったのでしょうか。

 

※あまり校閲をせずに記事を書いたので、一部文章を更新しています。申し訳ありません。