白水の津

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再公開:生徒投票についての考え

 注意:この記事は灘校生向けです。内部擁護などが使われておりますので、予めご了承ください。

 

こんにちは、softeroguraaisuです。今回は、生徒会長選挙でも争点となっていた「一般政策に対して、生徒会員全体に意見を問う全校投票」について、私自身の考えを明らかにしておきたいと考えます。(中央委員長選挙が終わるまでは公開できない内容でした)

 まず、私はこの政策に対して、反対の立場をとっています。主な理由として、

・多数派の専制

・理性的ではない意思決定

・高次の解決策を得る機会の喪失

の3点があります。反対の理由を詳しく論じます。

多数派の専制

 多数決というのは、それ自体が権威付けされる傾向にあります。多数派に訴える論証というのは典型的な誤謬なのですが、「多くの人から支持されている」ということで説得力を持たせやすいため、意思決定側も、そして多数派に所属する生徒会員も多数決による決定を正当化しがちです。しかし、これは少数派の意見を取り入れることができない、ということにつながりません。

 議会、ないしは各委員会幹部における「賛成多数」との違いは何か。それは、多数派・少数派双方の議論によって解決の糸口が探られたうえで、投票の権利を持っている人が論点を様々な側面から理解しているのか、していないのかの違いです。当然、多数決よりも賛成多数による意思決定を目指すべきでしょう。

 

理性的でない意思決定

 現実世界で言うところの、「スコットランド独立」「大阪都構想」「英国EU離脱」などといった、世論を二分するような問題では、感情的な、到底建設的とは言えないののしり合いが目立ちました。論点について十分な知識を持ち、明確な判断基準を持ち、対立する意見に対してもオープンマインドであり、自他の意見の根拠を批判的に検討するという、意思決定において必要な能力を、論点に対して十分に持ち合わせていない人は多いものです。そもそも、第一印象で賛成か反対かの立場を決め、それに対立する意見に耳を傾けない、だなんて人はよくいるように思えます。

 これらは高度な知性や精神性によって初めて成り立ちます。大の大人がそうなのですから、まだまだ精神的に成長途上で、衝動性に満ち溢れた灘校生ができないのも仕方がないことです。理性的な意思決定は、ある程度整理された話し合いの場を設けたうえで、その議論に参加している人ならわりかし可能なのかもしれませんが、全生徒会員にそれを期待するのは無理があります。

 

そして、独裁の正当化へ

 先述した「多数派の専制」と「理性的ではない意思決定」が交じり合えば、独裁の正当化へとつながります。歴史的にも、市民投票、referendumは独裁政治を正当化する手段として使われてきました。

 簡単なロジックです。指導者によって都合の良い、感情任せの理性的ではない意思決定を引き起こしたうえで、その市民投票の結果をもって政策を正当化(=多数派の専制)。市民のポピュリズム的要素を上手についたうえで、指導者による専制政治があたかも納得が得られたかのように行われたのです。市民は納得しているつもり、なのですが。

 このことは、灘校にとっても無関係ではないはずです。今回の中央委員長選挙でも、ポピュリズム的な投票結果が目に付きました。マック赤坂羽柴秀吉を彷彿させる泡沫候補はともかく、実はデメリットが大きいのですが、直感的にメリットが分かりやすい政策をもってして得票を得た候補が票を多く獲得しています。むしろ、灘校は実際の社会よりもメディアや市民団体による監視が弱く、まだ思考力・判断力が発達途上の中高生であることをふまえれば、より一層この危険性は大きいものであると言えるでしょう。

 

高次の解決策を得る機会の損失

 人々が直観的に「正しい」と感じた施策が、全体の利益を最大化するものであることは、むしろ稀です。始業時間に関しても、8:40か9:10の2択ではなく、「冬季期間だけ9:20始業」などといった、より生徒の利益を最大化する施策が存在しうることでしょう。

 重要なのは、1人が物事を判断するための全ての判断材料を知っており、考慮すべき全ての視点から物事をとらえることなど、ありえないということです。何であれ、審議の場を用意して解決策を探ることがいかに建設的であるか。生徒会長選で某候補が提示したように、「生徒から集めた施策を、とりあえず賛成か反対か問うてみる」という形式では、より良い灘校の実現は難しいのではないでしょうか。「オレンジジュースを作りたい人と、オレンジの皮を使ってマーマレードを作りたい人が、必死に買い争いをする」なんてことが笑いものにならないような、あまりに滑稽な状況は容易に想像できます。

 

追伸:他者の意見を扱うことの難しさ

 先述した内容といくつか被る点もありますが...

 他の人の意見を大切にしよう、そのようなことは小学校の段階から、ましてや幼児教育の段階でしきりに教えられることです。他者の意見に対してオープンマインドでなければ、それらの意見が持っている優れた点を得ることはできませんし、相互尊重という基本原則にも反します。

 そして、相手の価値観も、同様に尊重するべきです。価値観は、生まれ持った特性や、歩んできたストーリーによって形成されるものです。良心の自由は幅広く認められるべきであり、価値観への批判はあくまで自己批判にとどまるべきです。判断材料として様々な価値観を提示することこそ有益であれ、他者が大切にしていることをないがしろにすることが建設的であるわけがありません。

 しかしながら、これが難しいのですが、これらと他者の意見を批判することは全く矛盾しないだけでなく、むしろ自他の意見を批判的に検討することでそれぞれの価値観による相互の利益を最大化するような解決策を見出すことができます。さらには、お互いに批判によって新たな知見を得る、という意味では建設的な批判を互いに行うことこそ、相互尊重なのです。しかし、そのような建設的な議論はある程度整理された場ではないと行うことが難しいですし(高度なスキルを持った人が互いに話し合うのであれば、具体的には理科講義室の民同士であれば一定程度可能かもしれませんが、それをすべての生徒会員に要求することは厳しいと言えるでしょう)政見討論会を見る限り、一定の知性や精神性なしには、どのような場でも建設的な討論を行うことができない人というのは一定数いるものです。また、それ自体が悪いことでもないのかなと思っています。

 あまり考えがまとまり切っておらず、後味の悪い感じになりましたが、今回はここまでです。お読みいただきありがとうございました。

 

(2023年12月31日:再公開しました)