白水の津

灘校の内部情報とか、雑記とか

このブログの基本方針について

  このブログが当初、灘校生徒会、特に評議会のブラックボックス体制を是正しようと思って作成したブログだったのですが、対して需要がない、あまり閲覧されないことを主要因としたモチベーションの低下で、更新が滞っていました。

 このブログの基本方針を2点、

・灘校の校風について、制度設計をしている立場として自由に書いていく(灘校に関する都市伝説の検証ふくめ)

・その他、書きたいことを雑感する

にまとめて、今後は更新していきたいと考えています。

 灘校の校風について語るというのも、在学生や教諭にとってもそれなりに難しいことです。パソコンの詳しい仕組みを知らなくてもパソコンを操作できる、今実際にブログを執筆しているのと同様に、自由だとかについて知らなくても、灘校で生活していくことはできるわけであって。私も理解していることはあまりに少ないのですが、灘校生徒会で諸制度の策定や学校に関する議論を積極的にしている側として、校風について可能な限り多角的に深く考察できればと考えています。

 いろいろと多忙で、更新ペースにはムラがあるかと思いますが、今後ともよろしくお願いします。

 

日本衰退???

 

深夜だし、急進的な意見を書いておくけれど、
別に、日本が衰退しようが、弊校の人気が低下し、入学レベルが低下しようが、それ自体は構わないと思っている。globalization=世界の単一化のこの時代、市場原理でより良い環境に優秀な人々が移動するのはごく自然のことであるし、それは彼らのためである。
日本や学校が衰退することの何が問題なのか。それは、日本がその潜在性を無駄にしている可能性があることを暗示している、これに尽きると考えている。
win-win、すなわち、お互いのポテンシャルを使い切ったうえでも、俗的な言い方にはなるが「勝ち組・負け組」というものは生まれてくるだろう。ただ、それは社会が最適化されたことによって生まれるものである。あくまで市場競争によって、価値判断がされた結果だ。
国家も組織も、そこに関わる個人が集合体となり、形成されたものだ。尊重されるべきは、そこで何かしらのことをする一人ひとりなのであって、集合体それではない。役目を果たすことができないであろう組織を切り捨てることは、貧困に陥った個人をないがしろにするとは全く別問題である。具体的に例示すると、山間部の渓谷に2000万人が暮らすようなメガシティを作ることなど市場経済では到底成り立たず、強制的な権威によって行うほかないだろう。そして、そこで暮らしたり、訪問したりする個人は大きな不利益を被ることになり、これこそ避けるべきことだ。
ただ、これまで「勝ち組」であったものが「負け組」に転落した場合は、相対的に潜在性をないがしろにしている可能性を検討すべきである。それまで上手くいっていたのだから、ポテンシャルが駄目であったということは考えにくいだろう。プロテスタンティズム的な考え方ではあるが、日本が繁栄するのかどうか、そもそも繁栄すべきなのかは、実際に日本を興そうとしなければ分からないのだから。

再公開:予算配分についての考え方

 この記事は灘校生向けであり、専門用語や内部自称に関する知識を前提としたものになっています。あらかじめご了承ください。

 

こんにちは、softeroguraaisuです。今回は、私が予算配分についてどのような考え方を持っているのかを、簡単に説明したいと思います。

「公平な配分」

 「公平性のある予算配分」というスローガンを、私の知りうる限り過去の会計担当副会長の立候補者ほぼ全員が掲げていました。それも当然の話で、予算というのは定量的に価値を配分するわけですから、そこに恣意的な要素があっては困るという感情は自然なものです。

 そして、会計委員会は予算折衝の基準を策定し、それに従って各生徒会組織やクラブに限られた予算の中から配分を行います。しかし、これによって作成された予算案には毎年のように不安が噴出します。そして、そのほとんどは、「特定のクラブの予算が大きすぎる」といった類のものです。生徒会員がより納得する予算配分とは、どのようなものなのでしょうか。

 

生徒会予算とクラブ予算の異なる性格

 私は、生徒会予算とクラブ予算は異なる性格を有しており、それゆえ予算折衝のプロセスも違ってきてしかるべきであると考えています。生徒会予算には政策的側面があるのに対し、クラブ予算にはその側面が極めて薄いからです。

 まず、前者について。生徒会は(親睦としての側面が近年強くなっていますし、私もそれでいいと思っているのですが)あくまで生徒全体の福祉として還元するという役割があります。そのうえで、会誌の発行にはどれくらいのお金をかけるべきなのか、デジタル技術に灘校はどれくらいコストを割くべきなのか、そういった分配は生徒会長率いる中央委員が主導して決定していくのが自然であると考えています。しかし、もちろん細かい部分まで中央委員が把握することは困難ですから、大枠を定めたうえで各委員会と予算折衝を行っていくという形になります。

 しかし、後者に関しては形相が変わってきます。クラブ活動全体に、生徒への福祉だとか教育的意義だとかは存在しまして、それがクラブへの予算配分を正当化する理由になっています。そして、各クラブ自体がすべての生徒会員に広範に利益を還元するのではありません。あくまで各クラブを構成している生徒に利益を還元します。

 つまり、特定のクラブに予算が入ることによるメリットは、基本的には当該クラブに所属する生徒にしかないということです。もちろん、レゴの文化祭展示は灘校生の一定割合が楽しみにしているだとか、例外的な事項はあり、そういったことは予算配分でも考慮されるでしょう。ですが、一般論としては「とあるクラブが得をすれば、そのクラブに入っていない人が損をする」構造になっています。極端な話、会誌委員会に1000万円の予算が配分されたとして、一応生徒会員全員がその利益を享受することができますが、それこそESSに1000万円の予算が配分されてしまうと、ESSに入っていない99%の生徒会員は純粋に損をするのです。そのような、いわば価値のゼロサムともいえるクラブ予算は、どのように配分されてこそ正義であると言えるのでしょうか。

 

結局、自由競争

 公平な予算配分を実施するためにはどのような方針が採られるべきなのか。私は、可能な限り恣意的要素を排除したうえで、各クラブがより多くの予算獲得を目的として自由競争を行うことによってそれが可能であると考えています。

 先月の記事ー生徒投票について論じたものですーでも述べたように、すべての価値観や考慮されるべき要素を考慮した価値基準など、どこにも存在しません。私たちは、考慮すべき要素のうちわずかしか知らないのです。それにもかかわらず、えてして私たちは自らの持っている価値観に基づいた判断基準こそが適切であり、それによって物事が執り行われるべきだと錯覚してしまう傾向にあります。それゆえ、会計担当副会長が「A部はxxx円、B部はyyy円」といった形で予算を配分していくことは、適切であるとは言えません。会計担当副会長も、「私たち」の1人であり、例外ではないからです。不公平な予算配分、と称すると誤解を招くかもしれませんが、少なくとも一定数の人が納得できない予算配分となることは避けられないでしょう。

 それを踏まえて。私は、このような形での自由競争が望ましいと考えています。なお、これは会計規則改正により、今年度の予算配分で実現されます。規則改正に携わら  れた先輩方に感謝の意を表します。ありがとうございました。

・各部がより多くの予算を獲得しようとし、会計委員を説得したりだとか、交渉術を用いる。

・それに対し、会計委員会は折衝のために準備した、統一された予算配分基準を基に、予算支出の可否を判断する。

・利害関係のある人が予算配分を担当することを防ぐ。

・予算折衝、及び予算案作成のプロセスを可能な限り透明化する。

・これらは性善説ではなく、仕組みによって成り立たせる。

 これによって、あらゆる価値基準を包括し、もっとも公平性が担保された予算配分が行えるのではないでしょうか。強弁だとか、揚げ足取りだとかを見抜くだけの弁論能力を会計委員会の幹部が持っていなければ一定の問題点が発生するかもしれませんが、予算折衝や予算案作成のプロセスが透明化されているため、十分にその点を是正することが可能でしょう。私たちは、「特定のクラブにはこの程度の予算が配分されるべきだ」などといった、まるで価値基準を自分自身が包括しているかのような傲慢さを捨てるべきであると考えています。

 

 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

(2023年12月31日:記事を再公開しました)

再公開:生徒投票についての考え

 注意:この記事は灘校生向けです。内部擁護などが使われておりますので、予めご了承ください。

 

こんにちは、softeroguraaisuです。今回は、生徒会長選挙でも争点となっていた「一般政策に対して、生徒会員全体に意見を問う全校投票」について、私自身の考えを明らかにしておきたいと考えます。(中央委員長選挙が終わるまでは公開できない内容でした)

 まず、私はこの政策に対して、反対の立場をとっています。主な理由として、

・多数派の専制

・理性的ではない意思決定

・高次の解決策を得る機会の喪失

の3点があります。反対の理由を詳しく論じます。

多数派の専制

 多数決というのは、それ自体が権威付けされる傾向にあります。多数派に訴える論証というのは典型的な誤謬なのですが、「多くの人から支持されている」ということで説得力を持たせやすいため、意思決定側も、そして多数派に所属する生徒会員も多数決による決定を正当化しがちです。しかし、これは少数派の意見を取り入れることができない、ということにつながりません。

 議会、ないしは各委員会幹部における「賛成多数」との違いは何か。それは、多数派・少数派双方の議論によって解決の糸口が探られたうえで、投票の権利を持っている人が論点を様々な側面から理解しているのか、していないのかの違いです。当然、多数決よりも賛成多数による意思決定を目指すべきでしょう。

 

理性的でない意思決定

 現実世界で言うところの、「スコットランド独立」「大阪都構想」「英国EU離脱」などといった、世論を二分するような問題では、感情的な、到底建設的とは言えないののしり合いが目立ちました。論点について十分な知識を持ち、明確な判断基準を持ち、対立する意見に対してもオープンマインドであり、自他の意見の根拠を批判的に検討するという、意思決定において必要な能力を、論点に対して十分に持ち合わせていない人は多いものです。そもそも、第一印象で賛成か反対かの立場を決め、それに対立する意見に耳を傾けない、だなんて人はよくいるように思えます。

 これらは高度な知性や精神性によって初めて成り立ちます。大の大人がそうなのですから、まだまだ精神的に成長途上で、衝動性に満ち溢れた灘校生ができないのも仕方がないことです。理性的な意思決定は、ある程度整理された話し合いの場を設けたうえで、その議論に参加している人ならわりかし可能なのかもしれませんが、全生徒会員にそれを期待するのは無理があります。

 

そして、独裁の正当化へ

 先述した「多数派の専制」と「理性的ではない意思決定」が交じり合えば、独裁の正当化へとつながります。歴史的にも、市民投票、referendumは独裁政治を正当化する手段として使われてきました。

 簡単なロジックです。指導者によって都合の良い、感情任せの理性的ではない意思決定を引き起こしたうえで、その市民投票の結果をもって政策を正当化(=多数派の専制)。市民のポピュリズム的要素を上手についたうえで、指導者による専制政治があたかも納得が得られたかのように行われたのです。市民は納得しているつもり、なのですが。

 このことは、灘校にとっても無関係ではないはずです。今回の中央委員長選挙でも、ポピュリズム的な投票結果が目に付きました。マック赤坂羽柴秀吉を彷彿させる泡沫候補はともかく、実はデメリットが大きいのですが、直感的にメリットが分かりやすい政策をもってして得票を得た候補が票を多く獲得しています。むしろ、灘校は実際の社会よりもメディアや市民団体による監視が弱く、まだ思考力・判断力が発達途上の中高生であることをふまえれば、より一層この危険性は大きいものであると言えるでしょう。

 

高次の解決策を得る機会の損失

 人々が直観的に「正しい」と感じた施策が、全体の利益を最大化するものであることは、むしろ稀です。始業時間に関しても、8:40か9:10の2択ではなく、「冬季期間だけ9:20始業」などといった、より生徒の利益を最大化する施策が存在しうることでしょう。

 重要なのは、1人が物事を判断するための全ての判断材料を知っており、考慮すべき全ての視点から物事をとらえることなど、ありえないということです。何であれ、審議の場を用意して解決策を探ることがいかに建設的であるか。生徒会長選で某候補が提示したように、「生徒から集めた施策を、とりあえず賛成か反対か問うてみる」という形式では、より良い灘校の実現は難しいのではないでしょうか。「オレンジジュースを作りたい人と、オレンジの皮を使ってマーマレードを作りたい人が、必死に買い争いをする」なんてことが笑いものにならないような、あまりに滑稽な状況は容易に想像できます。

 

追伸:他者の意見を扱うことの難しさ

 先述した内容といくつか被る点もありますが...

 他の人の意見を大切にしよう、そのようなことは小学校の段階から、ましてや幼児教育の段階でしきりに教えられることです。他者の意見に対してオープンマインドでなければ、それらの意見が持っている優れた点を得ることはできませんし、相互尊重という基本原則にも反します。

 そして、相手の価値観も、同様に尊重するべきです。価値観は、生まれ持った特性や、歩んできたストーリーによって形成されるものです。良心の自由は幅広く認められるべきであり、価値観への批判はあくまで自己批判にとどまるべきです。判断材料として様々な価値観を提示することこそ有益であれ、他者が大切にしていることをないがしろにすることが建設的であるわけがありません。

 しかしながら、これが難しいのですが、これらと他者の意見を批判することは全く矛盾しないだけでなく、むしろ自他の意見を批判的に検討することでそれぞれの価値観による相互の利益を最大化するような解決策を見出すことができます。さらには、お互いに批判によって新たな知見を得る、という意味では建設的な批判を互いに行うことこそ、相互尊重なのです。しかし、そのような建設的な議論はある程度整理された場ではないと行うことが難しいですし(高度なスキルを持った人が互いに話し合うのであれば、具体的には理科講義室の民同士であれば一定程度可能かもしれませんが、それをすべての生徒会員に要求することは厳しいと言えるでしょう)政見討論会を見る限り、一定の知性や精神性なしには、どのような場でも建設的な討論を行うことができない人というのは一定数いるものです。また、それ自体が悪いことでもないのかなと思っています。

 あまり考えがまとまり切っておらず、後味の悪い感じになりましたが、今回はここまでです。お読みいただきありがとうございました。

 

(2023年12月31日:再公開しました)

定足数の緩和について

 こんにちは、softeroguraaisuです。今回は、定足数の緩和について、論点を解説していきたいと思います。なお、一議員の見解であり、評議会を代表するものではないことにご留意ください。

 

改正の背景

 現在、評議会は総議員の3分の2以上の参加をもって本会議を行うことができるようになっています。たとえ採決などを行わないにしても、3分の2を下回った時点(例えば、所用で評議員が帰宅するなど)で会議は終了となります。

 この3分の2という数字は、国会の定足数3分の1、麻布学園(東京版灘校です)予算員会の定足数2分の1、などと比較しても厳格な基準であると言えます。

 さらに、かつてはあまりに厳しい定足数の基準により、評議会の信頼が失墜する事態にまで陥ったことがありました。以前の評議会は1クラスあたり3人選出、かつ定足数は4分の3という基準があり、本会議を開くことが困難となっていました。その結果、人間の醜い面が露出。定足数を満たない状態での本会議が何年間にもわたって常態化してしまったのです。

 規約改正を発議した際、

 「評議会という犯罪者集団に、規則を変える権利などあるのだろうか?」

と灘校新聞に批評されたほどです。

 あまりにも厳しい定足数は、評議会の審議を妨げるだけでなく、信頼度の低下にもつながりかねません。このような問題意識を基に、改正案が発議されました。

 

議案の詳細

 以下のリンクからご覧ください。

 

議案(一般公開) - Google ドライブ

 

審議経過

 主要な論点を1つ抜粋。

特別多数の大幅見直し

 今回の改正案では、特別多数を「全評議員の2分の1」にまで減らされたほか、その対象は生徒会規約のみとなりました。生徒会の最高法規、いわば憲法のようなものである生徒会規約については、その重要性を鑑みて特別多数の要件を保持することにしました。

 

今回は以上です。ご覧いただき、ありがとうございました。